村田 太2026.08.17
こんにちは、ジェイフィールの村田です。
前回のコラムでは、なぜ日本では市民性が後回しになりやすいのかを、会社中心社会と余白のなさという視点から考えました。
会社で役割を果たすことは、多くの人にとって社会とつながる大切な方法でした。
一方で、会社の中で役割を果たすことと、社会を「自分たちでつくるもの」として引き受けることは、同じではありません。
では、企業の中に市民性は育たないのでしょうか。
私は、そうではないと思っています。
むしろ、企業の組織変革の現場にこそ、市民性を考える大きな手がかりがあるのではないか。
最近、そんなことを強く感じています。
私は日々、企業の組織変革に関わっています。その中でよく耳にする言葉の一つが、「当事者意識」です。
もっと当事者意識を持ってほしい。
主体的に動いてほしい。
自分ごととして考えてほしい。
多くの組織で、こうした言葉が語られています。けれど、現場に立っていると、いつも思うことがあります。
当事者意識は、「持ちなさい」と言われて持てるものなのだろうか。
主体性は、「主体的に動きなさい」と言われて育つものなのだろうか。
多くの人は、決して不真面目なわけではありません。むしろ、とても真面目です。
・指示されればやる。
・役割が明確であれば責任を持つ。
・ルールがあれば守る。
・期限があればきちんと出す。
・決められた範囲の中で、自分から動く。
これは、十分に「自主的」な姿です。
けれど、変革期に必要になるのは、それだけではありません。
・まだ誰も決めていないけれど、ここはまずいのではないか。
・これは自分の担当外だけれど、全体から見ると関わる必要があるのではないか。
・決まっていないなら、決め方から一緒につくる必要があるのではないか。
こうした問いに、自分から関わっていく力。
ここに「自主性」と「主体性」の違いがあるように思います。
自主性とは、決められた範囲や役割の中で、自分から動く力。
主体性とは、その枠や問いそのものに関わり、何をすべきか、どこに関与すべきかを、自分で考え行動する力。
そこには、与えられた役割を超えて、自分もその場をつくる一人だと引き受ける感覚があります。
枠の中でちゃんと振る舞う人は多い。
でも、これから必要なのは、枠や問いそのものに関わり、その場をともにつくる主体性なのだと思います。
これは、シチズンシップ、つまり市民性の問題と深くつながっています。
ここでいう市民性とは、選挙や政治参加だけを指すものではありません。
自分の暮らす社会、自分の働く組織、自分のいる場を、「誰かがつくるもの」ではなく、「自分たちもつくるもの」として引き受ける感覚のことです。
会社でも、学校でも、地域でも、社会でも、私たちはつい、こう考えてしまいます。
ルールは誰かが決めるもの。
方針は誰かが示すもの。
役割は誰かが与えるもの。
問題は誰かが解決するもの。
自分は、その中でちゃんと振る舞うもの。
この感覚は、組織の中では「誰かがやるだろう」になり、社会の中では「行政や学校や専門家が考えること」になっていきます。
では、「自分たちもつくるもの」として引き受ける感覚は、どこから生まれるのでしょうか。
ここで大事になるのが、共有された目的や課題の存在です。
人は、ただ「主体的になりましょう」と言われても、なかなか動き出せません。
でも、自分にも関係があると思える課題に出会ったとき、少しずつ関わり方が変わります。
このままでは、この職場は良くならない。
このままでは、若い人が育ちにくい。
このままでは、お客様に本当に向き合えない。
そうした目的や課題が少しずつ共有されていくとき、人は「自分の担当ではない」と線を引くのではなく、
「自分もこの場をつくる一人なのだ」と感じ始めるのではないでしょうか。
これは、昔ながらの共同体とは少し違います。
同じ地域に生まれたから。
同じ会社に所属しているから。
同じ立場だから。
同じ価値観だから。
そうした属性や所属だけでつながる共同体ではありません。
むしろ、違いがあることを前提に、
それでも「この課題は一緒に考えたい」
「この目的に向かって力を合わせたい」
「この場をもう少し良くしたい」
と思えるものを共有していく。
共有された目的や課題があるから、対話が生まれる。
違いがあっても、乗り越えようとする理由が生まれる。
そして、その場をより良くしようとする姿勢が立ち上がる。
前回のコラムで、私は「個人化を経験した後の、新しい共同性」という言葉を使いました。
その新しい共同性とは、単に仲が良いことでも、一体感があることでも、昔の共同体に戻ることでもありません。
一人ひとりが自分の考えや違いを持ちながら、共有された目的や課題を見いだし、その場をともにつくっていこうとする関係性。そこに、これからの市民性の土台があるのではないかと思うのです。
ジェイフィールでは、以前からヘンリー・ミンツバーグ教授が提唱する「コミュニティシップ」という考え方を大切にしてきました。
コミュニティシップとは、リーダー一人が組織を引っ張るのではなく、一人ひとりが主体者となって、コミュニティのメンバーと一緒に力を合わせて行動を起こしていく気持ちや姿勢です。
誰か一人の強いリーダーに任せるのでもない。
ただ個人がばらばらに自由になるのでもない。
自分がその場に居場所を持ち、その場を自分たちでより良くしていこうとする姿勢。
それが、コミュニティシップなのだと思います。
かつて、コミュニティシップは、リーダーシップとシチズンシップのあいだにある考え方として語られてきました。
リーダーシップだけでは強すぎる。一方で、シチズンシップだけでは、何かを変えていく力が見えにくい。
そのあいだに、コミュニティシップという概念がある。
その整理には、今も納得感があります。
ただ最近、私はこうも考えています。
シチズンシップそのものが弱いのではなく、日本ではそれが、具体的な課題を共有する場や、対話の経験と結びつきにくかったのではないか。
市民性が、抽象的な理念や意識の話にとどまり、日々の仕事、学校、地域、家庭の中で、
「自分もこの場をつくる一人だ」と感じられる経験につながりにくかったのではないか。
だから、社会を変える力として立ち上がりにくかったのではないか。
そう考えると、企業変革の現場で起きていることは、社会の縮図のようにも見えてきます。
自分の担当範囲はきちんとやる。
でも、誰の担当か曖昧なことには踏み込めない。
問題には気づいているけれど、決めるのは誰かだと思っている。
これは、組織だけの問題ではありません。
学校でも、地域でも、社会でも、同じようなことが起きているのではないでしょうか。
だからこそ、企業の中で共通の課題を見つけること。
その課題について対話すること。
決め方に参加すること。
役割を超えて、一歩踏み込むこと。
その場をより良くする経験を重ねること。
組織論では、こうした役割を超えた自発的な貢献を「組織市民行動」と呼ぶこともあります。
ただし、これは、会社のために自己犠牲的に尽くすことでも、同調圧力を強めることでもありません。
目的や課題を共有し、対話し、自分もこの場をつくる一人だと感じられる経験です。
それは、単なる組織貢献ではなく、市民性を育む経験にもなりうるのだと思います。
もちろん、そのためには土台が必要です。
・人が安心して声を出せること。
・情報が開かれていること。
・違和感を言葉にできること。
・役割を超えて関わってもよいと思える関係性があること。
そうした土台があって初めて、人は「自分もこの場をつくる一人なのだ」と感じられるのだと思います。
市民性は、会社の外にだけあるものではありません。
むしろ、私たちが日々働く場の中にこそ、
社会を自分たちでつくる感覚を取り戻す入口があるのかもしれません。
次回は、この問いをもう一度、教育の側から考えてみたいと思います。
自分を知ること。
他者と出会うこと。
社会との接点に気づくこと。
夢を描くこと。
それらは、どのような場や関係性の中で立ち上がっていくのか。
引き続き、教育と社会のあいだで考えていきたいと思います。
<これまでのコラム>
第8回 なぜ日本では、市民性が後回しになるのか
第7回 市民性は、なぜ続かないのか
第6回 教育と社会をつなぐ、その「先」へ
第5回 大人が変われば、子どもは変わる
第4回 「対話」と「ウェルビーイング」が交わるとき
第3回 “当たり前”の中に潜む、学校の対話の不在
第2回 “あいだ”に立つリーダー、校長先生の見えにくさ
第1回 なぜ、学校の話を“わたし”が語るのか